序 文
1978年7月25日世界初の体外受精児の誕生のニュースが全世界を駆け巡ったが、私は比較的冷静な気持ちで受け止めた。それより2年前からこの方面の基礎研究を手掛けていたので、来たるべきものが来たという感じであった。
この報道の興奮が次第に治まると、それに続いた影響が社会に広がった。ひとつには、この新しい生殖科学技術の臨床応用によって、それまで手の打うちようがないと考えられていた難治の不妊患者に新しい光明がもたらされたことである。不妊の原因は多彩であるが、この新しい生殖補助医療技術の登場によって、挙児の宿願が叶えられるという現実味が不妊夫婦の間に広がったのである。その後20年の間、関連した多くに技術が派生して、20世紀の終りまでにまたたく間に生殖補助医療の技術体系ができあがり、今日では不妊治療の最後の手段となっている。
もうひとつの重要な反応は、この医療技術を巡る倫理問題が不可避的に提起されたことである。標準的な体外受精技術を基本にして、さまざまな新しい工夫が報道されるたびに、倫理的な是非を巡って賛否両論が渦を巻いた。その都度臨床医として、また研究者としての立場から思索を重ねてきた積りではあるが、正直、何となく釈然としない感が残ることもあった。何故だろうか。
歴史的な必然性をもって出現したこの生殖補助医療技術に長年身を置いてきた者の一人として、この技術が本邦の生殖医療に適正に受け入れられることを願わずにはいられない。一般の臨床医学では生命科学と技術はより高いものを求めて常に進化し、生命倫理的にも「善なること」として歓迎される。ところが生殖の科学技術は必ずしもそうではない。この点が一般の医療技術との本質的な違いであることが見え始めた。これは突き詰めれば、人間の死を扱うか生を扱うかの違いである。かつて、脳死を巡っては、脳死臨調をはじめ濃密な社会的議論が起こったが、「いのち」の誕生については本格的な議論はあまり行われて来なかったのではないだろうか。
人命の誕生を取り扱う生殖医療では、「生きること」ではなく「生まれること」の倫理があまりにも難しいために、生殖の科学技術に一定の倫理価値を決め難いことは確かであろう。医の倫理学は体系づけられつつあるが、生まれることに対する人間学、つまり生殖の生命倫理学はまだ存在しない気がする。
生殖に関する生命科学は、ES細胞とクローン技術の登場により今日節目を迎えている。 実施面でも、治療周期数では今や日本は体外受精大国となったが、医療内容の質や実施体制面では多くの課題を抱え、それを乗り越えようとする機運が生まれはじめた。この時期に、明日の生殖補助医療があるべき将来の方向性を模索するため、生殖医療の科学と倫理を如何にして止揚するか、それを求めることが本書を世に出す動機である。
執筆にあたり、毛利秀雄東京大学名誉教授、豊田裕北里大学名誉教授、柳町隆造ハワイ大学名誉教授、久保春海東邦大学教授から、数々のご教示を頂いた。厚くお礼申し上げます。
平成16年9月 著 者