序 文

 現代ほど子どもの「こころの問題」が、社会的に大きくクローズアップされたことはなかった。少子化が進む中で、不登校、いじめ、校内暴力、家庭内暴力、摂食障害、薬物乱用、児童虐待など、子どものこころの問題が急増し、多様化し、しかも低年齢化する傾向にある。学級(学校)崩壊、援助交際のように、これまでの医学的常識では対応に苦慮する問題も出てきている。
 児童青年精神医学はますますその重要性を増しているが、わが国の大学医学部および医科大学には「児童青年精神医学」講座がなく、フルタイムで開かれる「児童青年精神科」があるのは未だに限られた大学病院である。最近、特殊外来として児童青年精神科外来を開く大学病院が多くなってきているが、システム的には諸外国に比して実に40〜50年の遅れをとってしまった。国際化が叫ばれている時代に、わが国はまぎれもない児童青年精神科医療の後進国となってしまった。
 児童青年精神医学は、子ども達があらわす多彩な精神身体症状・問題行動の意味を慎重に検討し、子どもの年齢と発達レベル、気質および生物学的背景、親子関係、家族力動、友人関係、保育所・幼稚園・学校における生活などを総合的に評価し、診断、治療、そして予防を行いながら、子どもの精神的健康の達成を企図するものである。
 子どもはまさに精神発達の途上にある。さまざまな心理社会的機能が未だ分化しておらず、環境に強く依存し、身体的な成長を基盤にしながら家庭、幼稚園、学校、地域社会と次第に生活の場を広げ、発達して行く。こころの問題を持つ子どもに接する場合、まずその子どもの発達段階に応じたコミュニケーションを成立させる技術に習熟していなければならない。遊び、描画、音楽などを通して、子どもが何を語ろうとしているのかを知ることが大切である。子どもがあらわす「症状」には、疾病の徴候を越えて種々の意味が含まれていることを認識すべきである。子どもはそれぞれの発達段階によって異なる症状の発現をし、こころの問題を身体症状としてあらわしたり、容易に退行するのが特徴である。 子どもが持つ多様な問題を解決するためには、両親や教師など、子どもを取り巻く人々の協力が必要であり、親に対するカウンセリングを行ったり、幼稚園や学校を訪れて教育の専門家と共に教育のあり方を検討することもある。また、子どもは治療を受けている間にも成長し、発達していることに目を向けなければならない。すなわち、発達を阻害したり抑制したりするような治療、教育を行ってはならず、こころの問題を解決することによって望ましい発達を達成していくように配慮しなければならない。
 「世界子供白書・1996版」は、冒頭に、ナチに捕らえられる直前の1944年7月14日に書かれたアンネ・フランクの日記の一部を引用している。
 『私は世界が徐々に荒涼とした場所に変わりつつあると思います。雷鳴が近付いてくるのが聞こえるのです。それが私たちを破壊するでしょう。私は無数の人々の苦しみを自分の膚で感じることができます。けれども私は空を見上げるたびに、やがてはすべてがよくなって、いま目の前にある無慈悲さも終わるものと思います。』
 私たちは、約60年前と現代の相似性に目を向けなければならず、21世紀に生きる子ども達に対するおとなとしての責任を重く受け止めなければならない。
 本書では、現代という時代を真摯に見据え、新しい児童青年精神医学の知見を集大成した。子どもにかかわるさまざまな領域で学ぶ学生のための教科書として、臨床の場において子どものこころの問題にかかわるすべての方々に役立つ参考書として、必要な項目を網羅し、それぞれの分野を代表する第一人者の方々に執筆をお願いした。現時点における「児童青年精神医学」の決定版の書となることを目標に企画されたものである。
 児童青年精神医学は生きた学問である。日々に出会う子ども達との、温かい真剣なかかわりの中からこそ学ぶことができるものである。本書を読んで、子どもの臨床にいささかでも役立つことがあれば、編者としては望外の喜びである。

編 者