まえがき
………天災は忘れた頃にやってくる………
人のカラダはいつ何どき、どの場所をケガするとも限らない。宿主の変調に乗じて微生物はそのキズ口から侵入を企てる。不意の襲来に、カラダは実に整然と対処する。異変を感知するセンサーをカラダ中に隈なく配備し、受傷部位にたまたま居合わせた「者」たちが適切に対処する。だれがどの場面でどのような役回りをするか、「場」を読み時宜を得て淡々と持ち分をこなす。遙かに多くの役者が登場し、多くの約束ゴトに基づいて行動する。壮大な無駄と気まぐれさ、呑気さも一方でもち合わせている。
局所の反応だけでは終わらない。同時にカラダはひとつのキズを修復するのに全知全能で対処する。全身の生体反応を総動員する。脳がキズの程度を知り、すべてを差配する。神経を駆使し、ホルモンを操り、そして免疫という役者たちを立ち回らせる。それも細胞どうしの調和を保ちながら全一性をもって。こうしたカラダのしくみ、生物反応は実に巧妙で工芸のようだ。その種明かしに研究者は没頭する。本書はその物語である。秩序ある美しいカラダのしくみを紹介する。
ケガをしたときのカラダの反応をつぶさに観察していくと、生命体は種を越えて共通したシステムを築いている点に気付く。それもそのハズ。ケガや環境の変化という非常事態に生物は長い歴史のうえで数多の経験を積んで学習してきた。それこそ、35億年という遙かに気の遠くなるような長久の時間をかけて生体反応を構築してきた。ここ6億年間だけでも生物は5回もの大絶滅事件を経験した。絶滅の度に辛うじて生き延びた「者」のなかから100万年の時を経て新しい種が突出し繁栄してきた。地球単位の環境の変化に忽然と適応機構を身に付けてきたのである。その機構はやがてヒトに継承された。その珠玉の遺物によってヒトはケガという侵襲にシステム化した適応戦術を身につけた。ほぼ完璧ともいえるほどの反応システムを備えた(と思う)。
手術はケガでも特別である。多くは日時と場所を決め「受傷」する。それも無菌を目指した清潔環境で。そういう条件はあるものの、カラダが損壊するという点で手術は矢張りケガのひとつである。
本書の構成を二部とした。第一部では手術というケガをしたときの反応をかいつまんでまとめた。通読すれば外科侵襲領域の全体像がわかるはずだ。第二部では生体反応の個々のテーマについて詳しく解説した。新しい話題を盛り込むように心がけた。それもNatureやScienceといった一流の雑誌からなるべく引用するようにした。
個人的なことである。日本外科代謝栄養学会の事務局を教室の先達から引き継いで11年。その任を全うし、この学問領域で筆者ができることはナニか。そう考えてみた……。そして、外科侵襲学という分野を体系化することを分に不相応にも思い立った。ちょうど6年前。膨大な資料に埋もれ日の目を見ることが薄れることもあった。その度に悠揚不迫。同級生の横澤保くんに勇気づけられること暫し。そして校書掃塵。塵を掃うが如く隈なく校正。でもマチガイはあるもので、意に適わず修正と再校の繰り返し。本書を上梓するにあたり、深く感謝申し上げます。
平成21年7月吉日