日本の着床前診断


その問題点の整理と医学哲学的所見

日本の着床前診断 その問題点の整理と医学哲学的所見
著 者
著:児玉 正幸(国立大学法人 鹿屋体育大学 教授)
発行年
2006年9月
分 類
産科学
仕 様
A5判
定 価
定価 1,890円(本体 1,800円+税5%)
ISBN
4-8159-1763-9
特 色
生殖補助医療に関する数々の生命科学技術のなかで,科学と倫理の相克を象徴する着床前診断(PGD)について,わが国における議論を真正面から捉え,問題点を整理するとともに,世界の流れと比較しながら,透徹した現場主義に立ってその実態を検証したうえでその臨床適応の是非に哲学・倫理的考証を加えた労作.本邦PGDに関する歴史的な集大成.


序 文

 本書の目的
 1.何をどこまで明らかにしようとするのか

 本書は,日本の着床前診断(以下,PGD)による受精卵の選別の試みに関する問題点を,医学哲学1)的視座(倫理学的・法学的・医学的・社会的4つの総合的視点)から整理するとともに,その臨床適応の是非について考察する.
 そもそも PGD の臨床事例第1号の報告者は,英国のハンディサイドである.彼が1990年に『ネイチャー』誌上に報告して以来,PGD は海外ではすでに 6,000 周期以上が先行実施されている.それに反し,日本では PGD の試みは緒についたばかりである.PGD の適応を「重篤な遺伝性疾患」に限定する日本産科婦人科学会(以下,日産婦)の認可件数はわずか6件−慶應義塾大学医学部のデュシェンヌ型進行性筋ジストロフィーのクライアントに対する着床前診断の実施申請認可5件(2004年7月および2005年6月,12月)と名古屋市立大学医学部の筋強直性ジストロフィーのクライアントに対する着床前診断の実施申請認可1件(2005年6月)−にすぎず,同学会への申請事例も,過去に5施設(鹿児島大学,セントマザー産婦人科医院,大谷産婦人科,名古屋市立大学,慶應義塾大学)にすぎない.
 そうした動向の中,大谷産婦人科院長(神戸市)が日産婦に無許可で PGD を3例実施していたことを公表した(2004年2月3日).日産婦が平成10年会告(平成11年7月5日改定)違反を理由に大谷医師を除名処分(2004年4月11日)にすると,同医師は日産婦を相手取り,PGD を規制した学会会告の無効確認などを求めて東京地裁に提訴する事態(同年5月26日)が発生した.
 2004年以降急展開する生殖補助医療現場の新事態に対して,従来,平成10年会告(平成11年7月5日改定)で PGD の適応対象を「重篤な遺伝性疾患」に限定してきた日産婦は厳しい舵取りを迫られている.PGD の臨床応用は目下,その高度先端生殖補助医療技術に期待する患者や彼らの負託に応えようとする医師サイドと,PGD の「適応の暴走」(「商業主義的展開」)や受精卵の選別に障害者差別を訴える関係患者団体とのはざまにあって,係争中である.
 以上の経緯を踏まえて,著者は以下の点を明らかにした.
 まず,鹿児島大学医学部産科学婦人科学講座スタッフの「受精卵の着床前診断に関する臨床研究施設認可申請」に対して,日産婦から不許可の最終決定が下るまでに,障害者団体より PGD による受精卵の選別の試みに関する問題点が指摘された.その問題点に対する事例研究を行い,同申請の是非について医学哲学的視座から論じた.
(第1部第2章)
 次に,「無申請の着床前診断」を実施した大谷医師の PGD による受精卵の選別の試みに関する問題点の事例研究を行い,PGD の是非について医学哲学的視座から論じた.
(第2部第1章〜第3部第2章)
 最後に,日産婦への批判的提言を行った.
(第3部第3章)


 2.当該分野における本書の学術的な特色,独創的な点および予想される結果と意義

 本書の特色は,日本のPGDによる受精卵の選別の試みに関する問題点を医学哲学的視座から整理するとともに,その臨床適応の是非について考察する点に存する.
 従来,日本におけるPGDによる受精卵の選別の試みに関する問題点を医学哲学的視座から整理すると同時に,その臨床適応の是非について考察する試みはなかった.その意味からして,高度先端生殖補助医療技術と生命倫理の相即不離の難問に関して,本書は他の追随を許さない先駆的な研究の試みである.
 予想される結果と意義については,PGD の実施に付随する以下の5大懸案が解決される.
 1.PGDは障害者差別(優生思想)である.(第1部第2章/第2部第1章)
 2.PGDは女性に対する抑圧である.(第2部第1章)
 3.PGDは生命の選別につながる.(第1部第2章/第2部第1章/第3部第1章・第2章)
 4.PGDは実験研究段階で,診断精度は低く,安全性が確立されていない.(第2部第2章/第3部第3章)
 5.PGDの「適応の暴走」すなわち「商業主義的展開」への歯止め.(第2部第2章/第3部第3章)


 3.国内外の関連する研究の中での当該研究の位置づけ

 英国のハンディサイドが第1号となったPGDの臨床事例2)以来,PGDは,2004年の時点で海外ではすでに 6,000例3)に達している.
 しかしながら,海外では,臨床データが豊富に蓄積されている割には,本研究の目指す「着床前診断による受精卵の選別の試みに関する問題点を医学哲学的視座から整理するとともに,その臨床応用の是非について考察する」成果が不十分である.ましてや,日産婦の平成10年会告により,PGDの臨床研究が「重篤な遺伝性疾患」に限定されている日本では,本研究は緒についたところである.日本のPGDによる受精卵の選別の試みに関する問題点を医学哲学的視座から整理するとともに,その臨床適応の是非について考察する本格的試みは本書が嚆矢である.本書は,「日本における着床前診断の現状批判4)」を行ったムンネ博士の負託に応えるものである.

平成18年7月
著 者



1)医学哲学の定義については,本書の第1部第2章「はじめに」を参照.
2)Handyside AH,Kontogianni EH,et al:Pregnancies from biopsied human preimplan-tation embryos sexed by Y‐specific DNA amplification.Nature 344:768‐770,1990.
3)Verlinsky Y,Cohen J,Munn S,Gianaroli L,Simpson JL,Ferraretti AP,Kuliev A:Over a decade of preimplantation genetic diagnosis experience − a multicenter re-port .Fertil Steril 82:292‐294,2004.
なお,ムンネ博士によれば,2005年度までの PGD の実施は同博士の施設だけで 5,000周期に達しており,2006年3月までの PGD の実施は同博士の施設だけで(2003年にReprogenetics 研究所開設以来)7,000周期と言う(第2回 PGD 研究会:東京四谷スクワール麹町,2006年5月28日).したがって,米国内での PGD の実施は,今や年間推計 7,000周期(自施設が 2,000周期,他施設が 5,000周期)と言う.
4)Munn S, Cohen J:The status of preimplantation genetic diagnosis in Japan:a criticism. Reprod Biomed Online 9:258‐259,2004.

■ 主要目次




はじめに−わが国の PGD(着床前診断)の歩み−
 1.本邦初の PGD 申請承認
 2.先天性遺伝性疾患への PGD の実施申請
 3.大谷医師の「無申請の着床前診断」実施
 4.習慣流産に対する PGD の適応の検討開始
 5.PGD の臨床適応のために

第1部 受精卵の選別とヒトの尊厳−鹿児島大学医学部の試み−

第1章 患者の権利−臨床医療現場の患者と医療者のために−
 1.「患者の基本的権利の内容」
 2.「患者の自己決定権の意義」
 3.「患者が自己決定できない場合の対処法」
第2章 高度先端医療とヒトの尊厳−医学哲学の視点−
 1.生命倫理学
 2.医事法学
第3章 アーサー・キャプランの新優生学批判
    −高度先端生殖補助医療技術の「適応の暴走」−
 1.キャプランの個人主義的新優生学
 2.キャプランの新優生学の倫理的問題点の整理と批判的考察

第2部 PGD の臨床適応−大谷産婦人科の試み−

第1章 PGD は「障害者への差別を助長する」のか− PGD と優生思想−
 1.脳性マヒ者協会・「全国青い芝の会総連合会」の見解
 2.大谷医師の反論
 3.「優生思想を問うネットワーク」の見解
 4.医学哲学的所見
第2章 「医学的理由」に基づいた大谷医師の PGD−問題点の整理と医学哲学的所見−
 1.問題点の整理
 2.医学哲学的所見

第3部 わが国の PGD 所見−問題点の整理と医学哲学的所見−

第1章 前胚(preembryo)と胚(embryo)
 1.ヒトの発生過程
 2.国(首相の諮問機関である内閣府総合科学技術会議
   生命倫理専門調査会)と日産婦の各生命観
 3.米国の多様な生命観
 4.学術用語の再検討の要望
第2章 「ヒトの生命の始まり」とPGDの法的倫理的妥当性
 1.「ヒトの生命の始まり」に関する現行法の立場
 2.PGD の法的倫理的妥当性
第3章 おわりに−日産婦への批判的提言−
 1.生命倫理,法,会告,ガイドラインのあり方
 2.日産婦への批判的提言

第4部 まとめと展望

第1章 まとめ−日産婦の最新動向−
 1.日産婦,均衡型転座に起因する習慣流産へのPGD の適応拡大を決定
 2.「本邦の PGD 略年譜」
 3.「本邦の PGD 申請または臨床適応症例」
第2章 展望−海外の PGD の現状(臨床適応症例,有用性,問題点)−
 1.海外の PGD 臨床適応症例
 2.PGD の医学的適応の有用性
 3.PGD の非医学的(商業主義的)適応の問題点

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